失われた香り
私が香りを深く追求し、表現してみたいと思った大きなきっかけのひとつに、
私の愛してやまない小川洋子さんの小説「凍りついた香り」があります。
それは私が二十一の時。
友人にきっとあなたこの本好きよ、と教えてもらった小川洋子の小説「薬指の標本」に虜になり、その“失われてゆくのもの”の美しい世界に囚われてしまいました。
そんな私は、その後彼女の作品を貪るように全て読み尽くしました。
中でも近所にある御用達の図書館で、ふと目に飛び込んできたのは、黒い表紙にひっそりとした硝子瓶の列んだ写真が印象的な「凍りついた香り」。
香りが凍るとは一体どういうこと?とタイトルに疑問を抱きながらも、どんどんとその世界に、私は吸い込まれてゆきました。
その物語の主人公の恋人は調香師でした。
何の遺書やダイイングメッセージもなく、香水を調合するときに使うアルコールを大量に飲用して死んでしまった彼の、死の意味や理由を探すうち、主人公は不可解な文章を彼のパソコンから発見します。それは実は香りを捕らえるために彼が記録したひとつの手掛かりだったのです…。
と、いうような始まりなのですが、その記録、「香りをあわらす言葉」があまりに美しく、そしてその香りのインスピレーションの源となるある場所がとても幻想的で、この物語に出てくる香水が現実にあったならば一体どんな香りなのだろう?嗅いでみたい!そしてもし私がその香りを創れたならばどんな香りだろう…という勝手な妄想、そしていつかこの小説の調香師の彼のように、香りで失われてゆく記憶を留めておけるような香りをつくってみたい、という、恐れ多い願望を描くようになったのです。
人間とはある一瞬間、たとえ強烈な体験をしても、時間を経ていくにつれてだんだんとその記憶は失われてしまうものです。
辛い出来事も永遠に覚えてい続けなければならなくないために「忘却」の機能もとても大切ですが、ずっとずっと覚えていたいことも知らぬ間に忘れてしまう…それはとてもさびしいもの。
だから私は、失われてしまったその人の物語や記憶を呼び戻すような、
そんな香りをつくっていきたい。
心の中の遠い思い出のドアをそっと押しひらく一助になれたら、いつもそう思っています…*